野本尚裕師範代は子供の頃からブルース・リーやジャッキー・チェンにあこがれ、何か格闘技をやりたいと思っていた。社会人になり、重機土木工事の会社で働いていたが、仕事の性質上、各地を転々とすることが多く、なかなか格闘技をやるチャンスがなかった。
徳島でゴルフ場の造成の仕事をやっていた時、「極真の道場なら日本全国どこへ行ってもあるだろう」との思いで入門した(ちなみに、その道場には若き日の逢坂祐一郎支部長や前川憲司支部長もいた)。
しかし、重機土木工事の仕事は現場が変わると道場も変えなくてはならず、生活の基盤も安定しないため、30歳を前に地元である愛媛に帰り転職をした。三好道場に移籍し、腰をおちつけて空手の修行を始めた。
当時、愛媛の道場には三好師範が月に一度指導にきていた。師範の稽古は緊張感の中で行われ、身も心も引き締まったという。
野本師範代には三好師範からかけてもらった言葉の中で忘れられない思い出がある。第19回全日本ウエイト制大会の重量級に出場した時のこと。重量級としては体の小さい方であった野本師範代だが、三好師範は試合前、野本師範代に「お前は体格では他の選手にかなわない。だから余計な事はするな。下段蹴り一本に絞っていけ」とアドバイスをした。師範のアドバイス通り、下段蹴り一本に絞った野本師範代は、みごと初優勝を果たした。のちに「下段職人」の異名を取ることになる野本師範代だが、そのきっかけは三好師範の言葉だった。
船井孝誠師範代が空手を始めたのは子供の頃、二人の兄が他流派の空手をやっていたことがきっかけだった。高等専門学校時代も空手部に所属していたが、それは他流派の空手だった。
19歳の時、アルバイト先の先輩に三好道場の生徒がいた。その先輩に連れられて三好道場の見学に行った。それまで興味はあったものの、極真空手は映画などでしか見たことがなかった。三好道場を見学して、初めて極真空手を目のあたりにしたのだが、その迫力にはただただ驚くばかりだった。
とりわけ三好師範の迫力に圧倒された。三好師範のことは映画で見たことがあったが、今その人が自分の前にいる。入門を決意するのに時間はかからなかった。
船井師範代には白帯の頃、印象的な思い出がある。交流試合に出た時のことだが、試合を終えた選手が一人ずつ三好師範に挨拶に行くと、師範は必ず何か一言、その生徒に声をかけていた。アドバイスであったり叱咤激励であったり、それぞれにかける言葉は違うものの、入門したての白帯にも必ず声をかけていた。その時の三好師範の姿を見て、船井師範代は指導者としての細かい気配りを学んだ。
一昨年、弐段に昇段したのを機に師範代に任命された。現在は大津、土佐山田、愛宕と3ヵ所の道場を受け持っている。
「三好道場はどこの道場よりも礼儀正しく、規律がしっかりとしていると思います。その伝統を正確に伝えていきたいです」と語る。
谷龍治師範代が三好道場に入門したのは27歳の時。子供の頃、少林寺拳法をやっていたが、黒帯を取らずに辞めてしまった。それが心のどこかに残っており、もう一度黒帯を目指したいと思った。「どうせやるなら黒帯を取るのが一番難しいとい言われている極真空手にしよう」と思い、見学に行った。道場には子供たちも多く、思っていたよりも雰囲気はアットホームだった。しかし、合同稽古が終わり自主トレの時間になり、黒帯がミットを蹴り始めた時、その迫力に圧倒された。「自分もあのように強くなりたい」―そう思った谷師範代は即入門を決意した。
入門から3ヵ月くらいが過ぎた頃、審査会で初めて三好師範に会った。道場に三好師範が入ると、空気がそれまでとまったく変わるのを感じた。谷師範代は三好師範の迫力に圧倒された。
谷師範代には三好師範の言葉で印象に残っているものがある。それは黒帯の“金筋”についてだ。
「新極真会の黒帯に入っている金筋は“筋金入りの男”の証なんだ」
当時色帯だった谷師範代はその言葉を聞いた瞬間、衝撃が走り、必ず黒帯を取る決意をしたという。
現在、谷師範代は医療用具の営業職の傍ら、湯の山道場の指導を担当している。三好師範から教わったものを地元の子どもたちに伝えていきたいと思ったため、自ら師範に願い出て許可をもらった。
「空手は生活の一部になっています。三好道場の一員として男気と大和魂を生徒たちに伝えていきたいです」と語る谷師範代。現役を引退してもライフワークとして空手は一生続けるそうだ。 |