名バイプレーヤーが語る世界大会秘話

10月22日 (土)23日(日)東京体育館で開催される新極真会『第10回オープントーナメント全世界空手道選手権大会』。10回目の記念大会を迎えたということで歴 史をさかのぼり、初期の世界大会で活躍した名選手にインタビューした。“三誠時代”と呼ばれる一時代に、名バイプレーヤー(脇役)に徹した三好一男師範が 語る世界大会秘話。
(eFight 2011年10月21日UP)

PROFILE
三好一男(みよし・かずお)

1957年11月27日、愛媛県出身
1976年4月、極真会館総本部に入門
1978年、第10回全日本大会5位
1979年、第11回全日本大会6位
1981年、第13回全日本大会5位
1982年、第14回全日本大会4位
1983年、第15回全日本大会4位
1979年11月、百人組手に挑戦して45人目で失敗
1979年、第2回世界大会は3回戦敗退
1984年、第3回世界大会では4回戦で敗退
闘志を前面に出した気風の良い組手で“大和魂”のニックネームが付く
現・全世界空手道連盟新極真会高知支部長


■塚本は斎藤佑樹君や石川遼君のように“何か”を持っています

ーー第10回世界大会は塚本徳臣選手、将口恵美選手が優勝を果たしましたが、大会全体を通して見ると、日本選手団が一丸となっての勝利だったように感じました。

「大山倍達総裁が亡くなられてからいろいろありましたけれども、やっと組織もしっかりしてここまで来たな、と感慨深いものがあります。総裁の作った極真カラテが世界に広がり、海外からも素晴らしい選手たちが来ますので、素晴らしい組織に育ったと思います」

ーー今回の全世界大会については、どんな展望を持っていますか?

「キャプテンに指名した塚本徳臣が中心となり、日本選手団に頑張ってもらいたいですね。今回で現役を引退 する塚本は調子が良さそうですし、最年少の世界チャンピオンと最年長の世界チャンピオンになるんじゃないかな、という気がしています。海外からはドナタ ス・イムブラスを中心に、ヴァレリー・ディミトロフ、ローマン・ネステレンコなど海外からも強い選手がいっぱい参加しますが、日本選手団に勝って欲しいで す」

ーー前回はベスト8に日本人選手が2名しか残らないという大苦戦を強いられましたが、今回はどうでしょう?

「不思議なことにベスト8に入る日本人選手が2名ずつ減っていますからね。第6回が8人、第7回が6人、第8回が4人、そして第9回が2人。そう考えると今回は0人になってしまいますが、今回は頑張ってくれると思います。私は彼らを信じています」

ーー三好師範が特に期待している選手は誰ですか?

「ユースから育ってきた島本兄弟(一二三、雄二)、落合光星らは主力選手が抜けたあと、彼らが日本を引っ張る存在になりますから今大会でどれだけやれるか。それと重量級の森健太、青ノ茂瑠が頑張らないといけないでしょうね」

ーー外国人選手で怖いのは?

「やはりドナタスでしょう。ヴァレリーよりも人間離れしたパワーがありますからね。勢いに乗せたら怖いで す。ただ、1〜2年前に遠征に行った時から、塚本がしきりにドナタスを指名してスパーリングをしていたんですよ。その時点から世界大会を睨んで意識してい たのだと思います。その成果が出ると僕は思っているんですけれどね。


塚本は“何か”を持っていますよ。斎藤佑樹君や石川遼君のように。塚本という男は節目節目でそういう何かをやりそうな気がするんです。副キャプテンには塚越孝行を指名していますし、現在の新極真会で最強の布陣が揃っています。ですから絶対に負けられないですね」

ーー三好師範も第2回、第3回と全世界大会に出場されていますが、どんな気持ちで臨まれたのでしょうか?

「僕らの場合は若手でしたから、とにかく我々の先輩が勝つための防波堤にならなければいけないという一心でした。日本が勝つために我々が捨て石にならなければいけない、と。


あの時は“三誠時代”(三瓶啓二と中村誠がトップを争っていた時代)と言って、今の塚本と塚越のような将棋で言ったら強力な飛車角がいましたからね。その大先輩方がいかに上がっていけるか、その人たちが上がっていくために外国人選手たちを止めないといけない。そんなことばかりを考えていました。自分が勝つ ことよりも、日本が勝つことばかりを」

ーーえっ、すると三好師範は優勝しようと思っていなかったんですか?

「1回も思ったことがないです(笑)」

ーー1回も!? それはどういうことですか?

「選手にはいつも“優勝を目指して頑張れ”と言うんですが、私自身は黒帯を取ることだけを目標に東京へ来ましたからね。そこが田舎から出てきて考え方が甘かったところなんでしょう。黒帯を取得したら田舎に帰ろうと思っていましたから。私のような考え方でやっている人間は、優勝できませんよ。なぜかと言えば、それなりの稽古しかしないからです。ベスト4やベスト8で満足しているような選手は、それなりの稽古しかしないんです。チャンピオンになる人は、チャンピオンになるだけの稽古をしますからね。


自分がそんな優勝するような器ではないと思っていたから、私の門下生たちには、みんなはやる以上は優勝を目指して頑張らないといけないよ、と言います。私がそう思わなかっただけに(笑)。やはり絶対に自分が優勝するんだと思わないとダメですよ。勝負の世界なんですから」




■三誠時代を築いたお二人は何をやってもケンカのようになった

ーーこれは意外でした。すると、三瓶師範か中村師範のどちらかが優勝するために自分は頑張ろう、と思っていたわけですね。

「そうですね。我々が防波堤になれればいいな、という考え方でした。私たちの時代はそうですよ。まだ若かったですしね。私が全世界大会に出た時は22歳と26歳くらいの時だったですし。今の選手たちは選手寿命が延びているじゃな いですか。もっともっと大人になって戦っていますからね」

ーーその立場で三瓶師範たちが全世界大会の優勝を目指して稽古しているのをご覧になっていたと思いますが、どんな感じだったのでしょうか?

「優勝を目指している人たちの稽古というものは、鬼気迫るものがありまし た。今から考えると、現役の選手はああでなくてはいけないと思いますよ。我々のように田舎から出てきて、とにかく田舎で極真の黒帯は凄いんだということを聞かされていた者たちにとっては、だったらその黒帯を取りに東京へ行こうという感覚でしたからね。だから黒帯を取った時点で満足してしまったんです。


大山総裁から大会に出てみろと言われて、ベスト8に初めて入った時に私のおふくろが凄く喜んでくれましてね。こんなに喜んでくれるのなら、来年も頑張ってベスト8に入らないといけないな、と。そんな感覚でしたから、優勝しようなんて大それたことは思わなかったんです」

ーー第2回、第3回大会で最も印象に残っていることは何でしょうか?

「そうですね……当時の決勝を争う先輩方の稽古の姿勢です。これはやはり凄 かったですよ。合宿で相撲をとってもケンカみたいになりますからね。アメリカ遠征に行かないと世界大会に選ばれていても出さないと総裁に言われたり、百人組手をやらないとそのアメリカ遠征にも行かせないと言われたり、どんどん試練を与えられるんですよ。


その試練の中で、アメリカ遠征に行った時に先輩方と朝に8キロくらい走るんです。最初は和気あいあいとして走っているんですが、三誠時代を築いたお二人は最後の方になるとマラソンでもケンカのようになるんですよ。マラソンでも、相撲でも、腕相撲をやってもケンカのようになるんです。


2人が腕相撲をやった時に私が行事をやったんですが、お互いに有利な組み方になるまでスタートさせてくれないんですよ(笑)。だから、その負けず嫌いというか、たかが腕相撲、たかがマラソン、たかが相撲でも全てにおいて決勝戦なんですよね。第2回、第3回でそういう時代に接して、そういう人たちの勝負に対する姿勢を間近で見て教えてもらいました。我々のように、黒帯を取って田 舎に帰ろうとのんびり考えていた人間の考え方の甘さを、まざまざと教えられました。


だから自分が道場を持って教える立場になった時に自分の生徒たちには、こういうことがあった、自分がベスト8しか目指さなかったからこういう結果しか残せなかった、みんなは優勝を目指さないとダメだよといつも言っているんです。一番を目指さないと一番には絶対になれませんよね。


塚本が去年の全日本大会で優勝した時に、“この1年間で僕は日本で一番練習しました”と言ったじゃないですか。誰よりも練習量では負けません、と言ったあの言葉に私は一番感動しました。やっぱり何の世界でも、こうじゃないとダメだなと思いましたね」

ーー三瓶師範と中村師範はやはりダントツだったんですか?

「ダントツですよ。ずば抜けていました。長距離でも短距離でも走ったら速いし、スタミナもあるんです。5人でアメリカ遠征を行ったんですが、その2人以外の私も含めた3人は付いていくのが大変でした。組手をやっても走っても何をやっても凄かったです。そういう方たちと一緒に稽古をさせていただいて、接することが出来たのは今の私の財産ではないでしょうか。


現在、選手強化委員長や総監督をやりながら、全てにおいて決勝戦のように 戦う2人の気持ちを今の選手たちに伝えていくのが私の役割だと思っています。また、それを期待されてこういう役職に抜擢されたんでしょうね。若い選手た に昔の選手たちのいい面を伝えていくために、指名されたのだと思いますよ」