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「自分のことだけでなく、仲間や後輩のことも考えて気合いを入れろ―」。厳しくも愛情あふれる指導で子供たちの能力を引き出す三好師範には、この高知から第二の龍馬を育てるという夢がある |
三好 それからの龍馬は水を得た魚のようです。たとえば、犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせるという大偉業を成し遂げる(※2)。彼は情報やアイデアを豊富に持ち、人と人を結びつける、今で言うインターネットのような役割を果たしたと思うんです。力ではなく知恵で問題を解決していく。「柔よく剛を制す」という力を養えたのも武道で修行しだからでしょうね。
三好 ただ、それだけの力を持ったために、逆に命を狙われることになってしまった。新撰組なのか、京都見廻組なのか、それとも明治新政府で主要なポストを狙っていた人が暗殺を企てたのか、諸説ありますが真実は闇の中なんですよね。もし殺されずに生きていたら、世界を相手にもっともっと大きな仕事をしていたんじやないかと思います。33歳という若さで亡くなってしまいましたが、日本で初めての商社をつくったり、海援隊を組織したり(※3)、日本で初めて新婚旅行をしたり(※4)、あの時代にブーツを履いたり、刀を差しながらピストルを持ち歩いていたりと、とにかく発想が自由で柔軟です。純粋な子供の心をなくしていなかったんでしょうね。
三好 もう26年続いています。総裁にいただいた一着の道着から、いつか桂浜を純白の道着で埋め尽くしてみせます、とお約束していますから。第1回目は昭和60年の元旦でした。私は59年の4月4日に東京から直接高知に入り、5月2日に三好道場をスタートさせました。
三好 高知に入った時は自分以外に道場スタッフがいませんから、一人で入門ポスターをつくり街に貼って、いつかかってくるかもわからない電話をずっと待っていました。今のように携帯電話がない時代でしたから大変でした。そんな苦労のかいあって、少しずつ入門者も増えはじめました。いろいろな門下生を指導していくうちに、この高知から龍馬のような人物を育てたいという思いが強くなってきたんです。だったら、やっぱり桂浜だろうということで、寒稽古をはじめたんですよ。
三好 各テレビ局もかわるがわる取材に来てくださいます。今年もNHKの全国ネットで放映されたそうです。なぜ人が一番のんびりしたい元旦にやるんだ、と思うかもしれませんが、日本で最初に稽古することで門下生には「一番」にこだわってほしいのです。桂浜の上では龍馬像が太平洋に向かっています。視線の先にはアメリカ、そして世界があります。その「視線」を我々が受け継ぎ、子供たちに追っていってもらいたいと思っています。この場所で新しい年のスタートを切るというのは、新極真会三好道場にとっては意味のある、一番大切なことなのです。将来、子供たちが夢を追って高知を巣立っていった時、新しい世界でつまずき、自分を見失うこともあるでしょう。そんな時、故郷は自分を原点に戻してくれます。身を切るような寒さの中、桂浜の寒稽古をやり抜いた自分を思い出してほしいのです。きっと、もう一度がんばれるはずです。故郷とはありかたいもので、私もそうでした。龍馬だって、つらい時は土佐の青い海に思いをはせたはずです。よく「土佐の海はえいぜよ!」と話していたそうです。そうして自分自身をリセットし、元気を取り戻していたんでしょうね。
三好 道場の新年を飾る一大イベントですからね。私は夜中の3時に道場を出発します。桂浜に着いたら、でっかい焚火をします。これは我々にとって、戦に行く時の松明なんです。そして私は、桂浜の先にある竜神様に寒稽古の無事を祈ります。それが私の初詣なんです。5時に道場生集合。5時半に稽古を開始。7時すぎの初日の出とともに海に入ります。今年の気温はマイナス2度でした。そして、一人ひとりが自分の学業、仕事、あるいは病気に負けないようにがんばろうといろいろな思いを込めて、海の中で突きを繰り出します。私は必ず先頭に入ります。これは第1回の時から決めているんですよ。「率先垂範」をモットーにしていますから。海に入る時も一番に入る。あと何年できるかわからないですけどね(笑)。
![]() 恒例となっている三好道場の寒稽古。初日の出とともに海に入り、全員で突きを繰り出す |
![]() 昭和60年に行なわれた第1回寒稽古の後、龍馬像の下で記念撮影。それから26年、このイベントは三好道場の名物としてずっと続いている |
三好 最初は寒そうにしていますよ。海に入るのを、お母さんに説得されている小さな子供もいます。でも、稽古が熱を帯びてくると体が温まってきますから、海に入る頃にはピカピカの笑顔で生き生きしています。そんな元気なムードで稽古ができるのも、龍馬が見ていてくれるからだと思うんですよ。ふつうの海岸ではそうはならないでしょうね。
三好 そうなんです。先ほども申しましたが、龍馬は「弱虫」「甘えん坊」「いじめられっ子」というマイナスからのスタートでした。それが国を動かすほどの人物になっていった。新極真の子供たちにだって、無限の可能性があるはずです。あきらめないでがんばれば、龍馬のようになれるかもしれない。いえ、なれるはずなんです。そしていつか龍馬のまなざしを持って、日本中を、世界中を駆け巡ってほしいと願っています。大山総裁も、若いうちはどんどんチャレンジしたほうがいいとおっしゃっていました。とくにユース世代の選手たちには、どんどん世界に出て行ってもらいたいですね。
三好 おそらく龍馬もここに立って太平洋を見ながら、大きく伸びやかな心を育んだと思うんですよ。そんな心を新極真の子供たちにも持ってもらい、大きく羽ばたいてほしいですね。私はよく思うんですよ。大山総裁もそうですが、新極真の緑健児代表も龍馬に似てるなと。一度会った人は、みんなファンになってしまうような明るくさわやかな力強い魅力がありますよね。うつむいていた人も、泣いていた人も笑顔になるような前向きな気分にさせてくれる。野球界なら長嶋茂雄さん、空手界なら緑代表しかいないんじゃないでしょうか。だから、緑代表がトップにいる新極真会が日本の武道をリードしていかなきやならないと思うし、リードできる唯一の組織だと思うんです。それには、サポートする我々もしっかりしなきやいけない。とくに私は、未来を担うユースというセクションを預かっていますから、責任重大です。
三好 新極真会という名前には、まさに「空手維新」という覚悟を込めているんです。そのくらい腹をくくって、みんなで立ち上がりましたから。後進のために、新極真会というすばらしい組織の礎になろうと思っています。我々が大山総裁から引き継いだものを、若い人たちに継承していかなければならない。同時に、龍馬が新しい時代に向けて疾走したように、つねに先を見て進化していかなければならない。古き伝統を守りつつ、新しいことにもアンテナを張り巡らせる、「温故知新」です。ヨーロッパでも、ロシアでも、アフリカの果てまでも、日本文化の空手はすばらしい、新極真会はすばらしいと言われるようになるまで、みんなで力を合わせてがんばっていかなければならないと思います。
| ※I 上士は、関ヶ原の戦いの後に掛川から入国した山内家の家臣。下士(郷士)は、もともと土佐に住んでいた長宗我部氏の家臣。出身が違うこともあり、土佐では他の藩にない厳しい差別があった。「上士になければ人にあらず」と言われるほどで、下士は服装まで制限されていた。龍馬は下士の家に生まれた。 |
| ※2 同じ倒幕の思想を抱いていながら敵対していた薩摩藩と長州藩が、龍馬の仲介により6ヵ条の同盟を締結。それにより、時代は倒幕→新政府樹立へと一気に動いた。 |
| ※3 龍馬が中心となって長崎・亀山につくられた結社が「亀山社中」。その後身が「海援隊」。倒幕を目的とした活動を行ないつつ、物資の運搬、軍艦や銃器の購入あっせんなども行ない、「日本初の商社」と言われている。 |
| ※4 京都の寺田屋で刺客に襲われた龍馬は、西郷隆盛のすすめで、温泉で傷をいやす目的も兼ねて鹿児島の霧島を旅した。妻のお龍も同行したことで、これか日本初の新婚旅行と言われている。 |